笑う経営 平成29年4月

「是非日本人から」と、多くの日本人が長い間この日を待ち望んできたことが、ついに実現した。これまでチャンスがありながらもあと一歩のところで成果をあげられず、決め手を欠き、何度も見送られ、その度に残念な思いをさせらてきた。

しかしとうとうやり遂げた。日本人にとって長年の夢だった「日本人による新元素発見」が確定したのだ。森田浩介教授(九州大学)と理化学研究所の研究グループは昨年11月にIUPAC (国際純正・応用化学連合)より113番元素の命名権が与えられ、提案どおり ニホニウム(Nihonium)、元素記号 Nhが正式に決定された。日本人にとって大変喜ばしい快挙だ。

実は日本発の新元素発見は1908年(明治41年)に一度行われているが実現していない。当時第一高等学校教授、後に東北大学総長も努めた小川正孝(1865-1930)が鉱石の中から第43番の新元素を発見したと発表、ニッポニウム(Np)と命名した。ところが43番元素は天然には存在しないことがわかり、この発見は認められず、幻に終わった。

ではこの発見は新元素ではなかったのか?1930年、小川教授が亡くなる直前に衝撃的なことが判明する。小川教授が発見試料を再度X線で調べたところ、43番ではなく第75番のレニウムだったことが解った。レニウムはドイツのノダックらによって発見され、ライン川のラテン名にちなんでレニウムと命名されたのだが、それは1925年のことである。小川教授は17年も早く発見していたことになる。最初の発見当時X線分析装置があれば、とっくにニッポニウムが新元素として登録されていたかもしれない。ちなみに43番は1937年にイタリア人のセグレらによって人工的に合成され、テクネチウムと名付けられた。

今回新元素の名前がニホニウムになったのは、ニッポニウム(Np)が過去取り消された経緯があるなどから再び採用できないルールがあったから。しかも元素記号Npは1940年に発見された93番元素ネプツニウムNpに使われてしまった。

実はこのネプツニウム発見にも日本人が関わっている。1940年理化学研究所の仁科芳雄が93番元素の存在を確認しているが、ネプツニウムだけを単独で取り出すことができなかったため発見とは認められなかったのだ。

ニホニウムにわく日本で、もう一つ今話題の元素がある。第54番元素キセノンXeだ。キセノンは気体で、吸って喋るとだれでもドナルドダックになれるヘリウムや、夜の街を彩るネオンサインでおなじみのネオンの仲間である。自然な昼光を発するので車のヘッドライトやストロボ、キセノンランプなど光源に使われている。

キセノンは科学的に安定していて、他の元素とほとんど結びつかない。ということはマレーシアで起きた暗殺事件で使われたVXガスとは真逆で、人体にほとんど影響を与えない、全く無害なガスなのだ。そのため不活性ガスとか希ガスなどと呼ばれ・・、えっ?化学とか元素とかじゃなくて、大相撲?新横綱の愛称がキセのん・・・こりゃまた失礼いたしました!

大相撲で今年、多くの日本人が長い間この日を待ち望んできた久しぶりの日本人横綱が誕生しました。若い女性ファンからキセのんと呼ばれている稀勢の里は春場所好調で、この原稿を書いている時点で9戦全勝。

そういえば稀勢の里と元素キセノンはどことなく似ている。希ガスは稀ガスとも書き、キセノン自体も「なじまない」とか「稀れな」という意味のギリシャ語からきている。亡くなった師匠鳴門親方(元横綱隆の里)率いる鳴門部屋(現田子ノ浦部屋)のしきたりは厳しく、他の部屋の力士とは交流してはいけないとされている。まさに希ガスだ。

希ガスは英語では貴いガスnoble gas(貴ガス)と表記されるのが一般的で、今のところ高校化学の教科書は希ガスとされているが、日本化学会は海外に合わせて貴ガスと表記するよう提案している。もし希ガスが貴ガスに変わったら、稀勢の里は田子ノ浦部屋から貴ノ花部屋に移籍して「貴勢ノ里」になる、という必要はもちろんない。

2003年、理研では力士のぶつかり稽古のごとく30番元素の亜鉛と83番元素ビスマスを衝突させて新元素113を得る実験が始まっていた。稀勢の里新入幕の2004年7月、最初の新元素が合成された。2005年、稀勢の里は19歳にして初の敢闘賞受賞。前頭5枚目に昇進。理研では2つめの新元素を得る。

稀勢の里が大関として初めて土俵に臨んだ2012年、理研はついに3つ目の元素合成に成功する。衝突実験延べ575日、24時間、毎秒2.4兆個の亜鉛原子をビスマス原子に向けて発射した結果だ。その間、放った亜鉛原子実に124,200,000兆個。うち当たった回数400兆回。出来た新元素はたったの3つ。

なにしろ原子核は1兆分の1センチ。この実験、野球場に落ちてる100円玉めがけて100円玉を投げつけてくっつけようとするようなもの。まず当たらない。当たってもくっつくとは限らないからである。

3回目となる新元素認定も最後までもつれていた。このところはドイツが白鵬の連覇のように107番から112番まで発見している。113番もドイツや米ロが競り合っていた。初場所、稀勢の里は終盤まで白鵬と優勝を争っていた。優勝できなければ横綱はない。14日目に優勝を決めた稀勢の里は千秋楽で白鵬を破る。土俵際まで追い込まれての逆転だった。

日本は2回合成に成功するも申請が見送られ、その間米ロは114番と116番元素発見が認定されている。まさに土俵際。決め手は3回めの合成だった。これがなかったら米ロにもっていかれたかもしれない。2003年に始まった113番元素合成プロジェクトは、気の遠くなる実験を繰り返し、稀勢の里が横綱に王手をかけた昨年秋に認可されニホニウムは誕生した。

森田教授が新元素発見をめざして研究を開始したのは1985年にさかのぼる。その翌86年7月3日に後の稀勢の里、萩原寛ちゃんが兵庫県芦屋市で産声をあげた。(その後茨城県で育つ)新元素研究と稀勢の里の人生はほぼ同時にスタートした。

小川教授のニッポニウム、仁科博士のネプツニウムと2度新元素認定を逃しつつ研究を重ね、ニホニウムを産んだ日本化学会。2度の綱取りに失敗しても腐らずあきらめず、ひたむきに稽古を重ね、新元素認定と時を同じくして悲願の横綱をつかんだ稀勢の里。ここ一番で大事な取組みを落としてきたことから本人は自戒をこめて「平常心」を座右の銘にあげるが、稀勢の里の生き様、結果が出るまでやり続ける森田チームの研究姿勢から、成功への最大の教訓「倦まず弛まず」を学び取りたい。

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