笑う経営 平成28年5月

学び続ける

201605-1エレクトーンを弾くのが趣味です。妹の結婚披露宴の時にエレクトーンで、新郎新婦お色直しの入退場、キャンドルサービスのBGMを担当しました。全部で6曲を弾きました。

最後の退場の曲を一生懸命弾いているとき、親戚のおばさんが色紙を片手に私のところにやってきて、「マジック(ペン)ない?」と聞いてきました。私がただ座っているだけと勘違いしたのでしょう。「しゃべりかけないでぇ。いま弾くのに必死なんだから。弾くだけで必死なんだから!」

私は無言で、ここにマジックはない!と、思いっきり首を横に振り、ひたすら鍵盤に集中しました。 披露宴が終わって、目立ったミスもなく弾き終え、ほっとしていると、あるお客さんから「(エレクトーンの)プロですか?」と聞かれました。

201605-2私は即座に答えました。・・・「はい」
と、語尾の下がったイントネーションではなく、思いっきり語尾をあげた、?マーク付きのイントネーションで。

とんでもない。実は私はその6曲以外ほとんど弾けなかったのです。 初見 といって、楽譜を初めて見てすぐにサッと弾く、そんなプロの芸当など、もちろんできません。

一曲、一曲弾けるようになっていけば、レパートリーがどんどん増えると思いきや、練習し続けていないと、弾けた曲もすぐに弾けなくなります。結局、今でも数曲しか弾けません。

このときは6曲だけに集中して練習し、それだけは完璧に弾けるようにしておきました。だから6曲だけ弾いているぶんには、あたかも何でも弾ける人、のように見えるのです。

こういうことって仕事上でもよくありませんか?というか、実務的な仕事ってみんな多かれ少なかれこんなもんです。

仕事に必要なところだけ学ぶ。特に今みたいに、どんどん新しい手法が出てきたり、次々と新しい機器やソフトが使われるようになったり、制度や法律がコロコロ変わったりする世の中ですから、いくら学習しても追いつきません。一つ一つ正式に学んでから実行しようとしていたら、学び終えた頃は古くなっていて、たちまち取り残されてしまいます。

今は必要な情報とか知識がたくさんあります。こういう世の中を難しくいうと「知識社会」と呼ぶのだそうです。何か「知識」というものがとても大切なイメージがありますが、知識が古くなる、陳腐化するスピードも早いのです。「知識」の賞味期限がすごく短くなっています。知識が大切どころか、相対的に価値が下がってしまいました。

身に付けるべき新しい知識に、常に囲まれている私たちは、仕事をしていく以上、ずっと勉強し続けなければなりません。ですから、必要な知識をいかに吸収し、いかに活かすかという、学習能力と思考力を身につけることが大切となるのです。

ただ知識を追いかけるのではなく、いつの世でも変わらない、固定的な知識、難しく言うと「普遍的な知識」と、どんどん変わる一時的な知識、かっこよく言うと「流動的な知識」とに分けてみましょう。そして普遍的な知識はじっくり、しっかりと身につけ、流動的な知識は、効率よくササッと学ぶようにすれば、勉強時間の無駄が省けます。

「知識社会」という言葉を最初に言ったのは、有名な経営学者、P.F.ドラッカーで、もう60年も前のことです。ドラッカーさんの「ポスト資本主義」という著書にこんなことが書かれています。

「知識労働とサービス労働の生産性向上には、仕事と組織に継続学習を組み込むことが必要である。知識はその絶えざる変化ゆえに、知識労働者に対し継続学習を要求する。サービス労働者に対しても、たとえそれが純粋に事務的なものであっても、継続的な自己改善努力としての継続学習を要求する」

(ポスト資本主義、P.F.ドラッカー、上田惇生訳、ダイアモンド出版) 

さすがにドラッカー先生です。難しくて何を言っているのかよくわかりません。要は、頭を使って働く人、頭も身体も使って働くサービス業の人は、仕事をしながら学びなさい。知識はどんどん変わるから、頭を使う人は、ずっと勉強し続けなさい。事務的な仕事も、効率よくやるためには学び続けなければいけないよ、ということでしょうか。当たり前といえば当たり前ですが、こう格調高い文章で書かれると、何やら厳かな気持ちになってしまいます。

仕事をしながら学ぶという姿勢は、職人さんの世界では当然だったでしょう。しかも師匠や先輩は何も教えてはくれず、技は盗めと言われたように、自分で学び取るのです。

私はワープロやパソコンの技術は実際の文書を作りながら身につけました、字を書くときは漫然と書くのではなく、ペン習字の練習や書道をしていると思って書くようにしました。専門知識も泥縄式です。体系的に全体を勉強するなんてことはしません。その仕事をするのに必要な知識だけを、必要なときに勉強しました。

エレクトーンも、最初は基本的な指の練習とコードの知識をしっかり学んでから弾くべきと思っていましたが、そんな基本的な練習は一切やらず、一曲、一曲を仕上げていくことが指の練習とコードの勉強だと思うようにしました。

ニセ医者が患者さんの前では堂々としているけれど、分からないことがあると席を外し、陰であわてて本を読んで、知識を仕入れ、何食わぬ顔をして患者の前に現れ、また堂々と話しをする。というコントがありました。ニセ医者が陰で読む本「医学早わかり」というタイトルが笑えました。

さすがに医師が医学に全く無知では困りますが、アメリカのある有名な詐欺師は、数ヶ月で集中的に医学の勉強して普通の医者並みの知識を身につけ、ニセ医師を働いた例もあります。詐欺ではダメですが、彼の学習能力は見習いたいものです。

何事も勉強と思ってやるのと、ただやるのでは結果において大きな違いが出てきます。日頃写真を撮るにしても、写真技術の学びという意識を持って撮れば、ことさら写真の勉強をしなくても学ぶことができるわけです。語学も、いきなり話す、書くを実践する中で学ぶのが一番上達します。

学ぶことの多い、忙しい私たちは、学んでからやる、ではなく、やりながら学ぶ・学びながらやる、という姿勢で何事も取り組むと成果が上がります。エレクトーンも弾きながら上達していくものですが、上達してから弾け、と言われそうです・・・。

This entry was posted in 笑う経営. Bookmark the permalink.