笑う経営 平成26年1月

warau201401

新年を迎え、初日の出は拝めましたか?拝めなかった方、ご安心ください。このニューズレターの最後にお宝写真を載せました。(オリジナル写真です)おひさまのパワーが出ていますので、しっかり浴びてください。

1お宝列島がうたい文句のTV番組「開運!なんでも鑑定団」。値があると信じて家宝にしていたのに、数千円と鑑定され凍りつく依頼人。逆に家族みんなにガラクタと思われ、笑われていたものにとんでもない高額の値がついたり。そのギャップが面白い番組だが、それ以上に芸術家や美術品の解説がわかりやすいのがいい。すぐに忘れるが勉強になる。

その鑑定団に長野県(飯田市)出身の画家、菱田春草の虎の絵が出品されたことがあった。解説では春草の作品に虎はほとんどないというので、ニセモノなんじゃないの?と思って見守っていたら、これが本物で1千万近い値がついて驚いた。依頼人も驚喜。

春草は1890年(明治27)前年に開校したばかりの東京美術学校(後の東京芸大)に入る。第一期生の横山大観、下村観山、西郷弧月(松本市出身)らに影響を受けた。彼らは日本画の近代化のために画期的な試みを行う。従来の日本画に欠かせなかったものを無くしたのだ。

それは「輪郭線」である。無線描法というが、当然世間には受け入れられず、「朦朧体」と非難を浴びた。あるはずの輪郭がないのだから、当時の日本画家は、ぼんやりと映る絵に相当戸惑ったに違いない。

それだけではない。彼らの日本画は「鵺派」とからかわれた。鵺(ぬえ)とは頭は猿、胴はタヌキ、蛇の尾を持ち脚は虎という怪物だ。つまり東京美術学校の日本画は洋画、狩野派他日本画の諸派が合わさった得体のしれない画風だという意味である。

そんな彼らが世間の悪評にもめげずに改良を重ね次第に評価されていくようになったのは、強力な指導者がいたおかげである。その人物こそ春草が入学したときの2代目校長にして、東京美術学校の設立にも関わった、岡倉天心(覚三)である。その時岡倉校長、なんと27歳である。

幕末から明治にいたる間、どうしてこうも傑出した人物が次々と現れたのだろう。戦国武将も役者がそろった感があるが、幕末明治も偉人達が綺羅星のごとく現れている。薩長、土佐をはじめとする幕末の志士たち、象山、松陰、福沢諭吉、昨年の大河ドラマでおなじみの同志社の新島襄・八重など、政治家といい教育者といい、文武にわたる逸材は枚挙にいとまがない。国が大きく変わる時とはこういうものなのだろうか。

しかもこの頃の時代のリーダーたちの気骨あふれる精神と語学力は驚異的である。新渡戸稲造は武士道(Bushido,the soul of Japan)を英語で書いた。岡倉天心は「日本の目覚め」(The Awakening of Japan)「茶の本」(The book of Tea)をニューヨークから英文で出版している。

天心の語学力を示す次のエピソードが好きだ。

1903年(明治36年)、岡倉がボストン美術館からの招聘を受け、大観、春草ら弟子を伴って渡米したときのこと。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際、1人のチャラい若者が東洋人を冷やかしてやれと「ヘイ、ユー! おまえたちは何ニーズだ? チャイニーズか? ジャパニーズか? それともジャワニーズ(ジャワ人)かい?」

天心は「我々は日本の紳士だ。あんたこそ何キーなんだい? ヤンキーかい? ドンキーかい?(ろば、馬鹿)それとも モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。

まさに気骨と語学力がないとできない芸当だが、小気味いい話である。ちなみにこの場合、気骨と語学力とどちらをとるかといえば断然「気骨」の方である。気骨さえあれば語学力がなくても、相手に「日本語で話せ」と押し切ることができる。本城式英会話の本城武則氏は、日本人が英会話が上達しない原因は、多くの日本人が、英語を話す西洋人の方が上というコンプレックスを持っているからだと指摘している。西洋人を対等とみなし、英語なんか正しく話せなくても卑下しないこと。それが英会話上達の最大の秘訣と教えている。

 

2岡倉天心が美術学校の校長になってから8年後の1898年、反天心派の排斥運動により校長の座を追われた天心は、弟子たちとともに日暮里駅近く、東京谷中に日本美術院を設立する。その後美術院の拠点は茨城県北茨城市の五浦(いづら)に移る。

昨年11月、かつて日本美術院が置かれた五浦海岸をバスで訪れる機会を得た。五浦は今でこそバスや車で簡単に行くことが出来るが、当時はここまで来るのにさぞ不便な思いをしただろう。しかし天心は五浦の景色を大変気に入り、住居までも構えた。

確かに都会の喧騒から離れた風光明媚な場所で、日本画の制作に集中するにはもってこいの環境にある。天心は岸辺の岩場に建てられた六角堂(トップ写真)で瞑想や読書に耽ったという。

当時日本に怒涛のように押し寄せてきた西洋化の波、西洋的な価値観に対し、単に受け入れるだけだったら、伝統的な日本文化や芸術は押し流されていたかもしれない。しかし天才的国際人、岡倉天心によって、日本画は日本文化という軸を失うことなく、西洋との融合、他のアジア文化と統合する形で守られると同時に近代日本画として進化することができた。

改めて「開運!なんでも鑑定団」をみてみよう。依頼人の多くは家族から飽きられるほどの骨董好きである。中には金銭的価値しか興味のない投機的な依頼人もいるが、たいていは自分の審美眼を信じて疑わない、憎めない美術品愛好家である。彼らは自分が芸術品と思うものにはお金を惜しまない。どんなに家族から冷遇されてもめげず、たとえ離婚の危機が迫っても決して動ずることなく芸術品(と思うものに)躊躇なく投資する。

岡倉天心は「茶の本」の中で、芸術が人を気高くするといっているし、茶道が盛んだった戦国時代、武将は戦勝の褒美として、広大な領地をもらうより、珍しい美術品を贈られるほうがよろこんだ、と書いている。

このように芸術鑑賞にとり憑かれた人が多いということは素晴らしいことである。こういう人たちのおかげで芸術、文化は発達するし、お宝がお宝として守られていく。物を単に物質、実用的な道具と見るのではなく、たとえブリキのおもちゃであっても、芸術品ととらえようとする姿勢が「豊かさ」である。

生活必需品や実用品が十分満たされた今、単に消費を煽るのでは景気はよくならない。これからは鑑定団に出てくる依頼人を満足させるような方向でのビジネスが求められるだろう。

ところでお宝は、岡倉天心先生も見た、五浦海岸から見た日の出の写真です。はたして鑑定やいかに?

「本物です。岡倉先生が見た太陽と同じ太陽に間違いございません。」
(今年一年の開運吉祥を。おひさまの力を受け取って下さい)

五浦海岸より望む水平線から昇る朝日。平成25年11月12日撮影

五浦海岸より望む水平線から昇る朝日。平成25年11月12日撮影

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