笑う経営 平成25年8月

オチつかない話

warau201308落語家、古今亭菊生師匠は奇数月、四柱神社にて落語会「菊生落語百夜」を開いています。7月で61夜目を迎えました。この落語会も10年が経ったわけです。

落語という話芸は世界中でおそらく日本唯一の話芸だと思います。というか、仮に同じような話芸があったとしても、着物、座布団、扇子、手拭いを使う時点でもう日本だけの文化に間違いありません。

落語はご存じのように最後に「オチ」がある話です。落語でなくても、話の最後にオチがないと、どうも聞き終ってスッキリしません。何だかとりとめのない話だなぁと、どこか物足りない感じがします。「だからなんなの?」と、オチを求めてしまうのは日本人だけでしょうか?

だから「オチ」とは「話の締めくくりを粋にスパっと締めるもの」と定義できそうです。話だけでなく、文章でもオチのある文章は読後のナルホド感、ガッテン感が増すような気がしませんか。このニューズレターも毎回「オチ」をどうするかでけっこう悩んでいるんです。

オチのある話

落語のオチは色んなパターンがありますが、語呂合わせ、つまりシャレで終わる落とし方があります。専門的には地口落ちという、いわゆるおやじギャグ的なものです。よく前座さんなんかがやる小噺に、
「向うの空き地に囲いができたってね」 「へー」
というやつ。それで?という人に、解説しよう!囲いは「塀」ともいうよね。で、返事の「ヘー」に「塀」をかけたわけである。

「だから何?」って聞く人にはもう解説しません。そういう堅い人いるんです。そういう人は落語は聞かないで下さい。悩みますから。

「鳩が何か落としたね」「ふーん」も同じパターン。
先代林家三平さんがよくやった小噺、
「母ちゃん、パンツ破けた」「またかい?」(ドーモスミマセン)

ちなみに私は言葉をそっくり繰り返すシャレが好きで、お気に入り自作小噺にこんなのがあります。
「この救命いかだには、何人乗れるんだい?」「九名以下だ」
さて、菊生百夜には時々番外編もあって、6月に番外編を聴きに行きました。この日の演目は「新聞記事」と「居残り佐平次」でした。

「新聞記事」は、人まねをしようとして失敗するパターンの落語。あらすじは、八五郎がご隠居に、今日の朝刊を読んだかと聞かれ、読んでないというと、ご隠居声をひそめて「お前の友達の天ぷら屋の竹さんが昨夜泥棒に殺されたぞ」と言うのでびっくり。腕に覚えのある竹さんは夜中に泥棒と格闘し、捕まえ、縛ろうとした一瞬のスキに匕首で胸元を刺されて、かわいそうに一巻の終わり。泥棒はそのまま逃げてしまったという事件。

「あの竹が・・・」と八五郎は絶句する。幸い泥棒は5分立つか経たないかで捕まったという。「入った家が天ぷら屋だ、すぐあげられた」
という八五郎をからかう、ご隠居創作のなんちゃってオトシ話だった。
八五郎はすっかりこの話に感心し、マネしてやってみたくなった。まず知り合いの家に飛び込んで話し始めたが、それが当の天ぷら屋。竹さんに話し始めてしまい怒られて逃げ帰る。

八五郎、次の家を見つけ飛び込む。そこでは時々間違えながらもなんとか話は終わりまでいくが、オチを忘れてしまう。すると相手が「あげられたっていうんだろ。入った家が天ぷら屋だからな」と先を越していわれてしまう。八五郎は一番いいたかったセリフを言われてしまい、ガックリ。

ここでこの噺の持つ問題点を一つ指摘しておこう。問題は人の生き死にを笑いにしているところである。通常、人の生き死での笑いはタブーなのだが、この話は堂々とタブーを破っている。テレビでも大喜利で司会の歌丸さんを円楽さんが殺したり死なせたりする回答で笑いをとっている。もちろんシャレだが、あまり度を越すと嫌味になる。

この題目でも、なにも竹さんを死なせなくても、せいぜい怪我くらいでも良かったはずだ。しかし噺の作者は最後のオチをどうしても言いたかったのだろう。そのためには、竹さんにどうしても死んでもらう必要がある。
八五郎がガッカリしていると、相手は「この話の続きを知っているか」という。もちろん八五郎は知らず、きょとんとする。
「竹さんのかみさんが、もう二度と旦那は持たないと、出家して尼さんになった」「どうして?」「もとが天ぷら屋だ、衣をつけた」

この噺は昭和初年の作といわれている。人の生き死にのタブーがありながら古典として今も残っていることに少々不思議な感じのする題目です。

腑にオチない話

二席目は「居残り佐平次」です。この話を菊生さんから聞くのは2回目ですが、いつも聞いた後、どうも釈然としないものが残る問題の噺なんです。

あらすじは、佐平次という男が、数人の仲間を引き連れて品川の遊郭で遊んだ挙句、飲食代を踏み倒し、なおかつ店の主人から着物からお金までせしめて去っていくというとんでもない話。

「居残り」とは飲食店で食事をしたらお金が不足し、お金を取りに行くとき、一人を人質に残していく。その残された人のことを「居残り」という。ところがこの佐平次、最初から払う気がない。仲間から少しずつ集金はするが、それは自分の母親に届けてくれと仲間に持たせて帰らせてしまう。一人残った佐平次はお金を持っていないのに堂々と飲んだり食べたりを続ける。つまり無銭飲食の確信犯。これは正確には居残りではなく、詐欺である。

無銭飲食が発覚すると今度は自ら進んで居残る。居残るといっても誰もお金を届けてくれるわけではない。この男、とにかく弁が立ち、居残っている間、お店のお手伝いや、幇間のようにお客さんにサービスしたりと働き、すっかり人気者になってしまう。もともと「佐平次」とは、古くから浄瑠璃や落語社会では、良く喋る、図々しくおせっかいな人のことを指す隠語である。

ここで飲食代相当分働いて返しましたと終われば、落語らしく罪のない滑稽話となるのだが、この話はそうではない。佐平次に客を奪われ、収入の減った店員が佐平次を追い出してくれと店の主に談判する。主人は佐平次を呼び、勘定はタダにするから帰ってくれと言う。

ここで主人の恩義に感じ入り改心するならまだ聞いていて救われるのだが、佐平次は、自分は凶悪犯人で、ここを出ればすぐにお上に捕まり処刑されてしまう。そうなれば店にも迷惑がかかるぞと脅し始める。主人は面倒なことには関わりたくない。この主人、いい人なのか、人がいいのか、気が弱いだけなのか、金三十両や、上等な着物まで与えて厄介払いする。

店の若い衆が、上等な着物を着て、意気揚々と去っていく佐平次の跡をつけていくが、いっこうに捕まる気配はない。若い衆が佐平次を問いただすと、「お前の主人はバカだ。俺は居残りを商売でやっている佐平次てんだ。覚えとけ」と捨てぜりふを吐く。驚いた若い衆が急いで店に戻り主人にそのことを報告すると、主人は「なんて奴だ!私のことをおこわにかけたな」(おこわにかける=詐欺)と悔しがる。すると若い衆が「ええ、あなたの頭がゴマ塩ですから」でオチとなる。

オチたようなオチないような話

だいたい落語は、楽しいコメディ、風刺、役人への反発、ナンセンスギャグ、夫婦の愛情物語、人情ドラマ、犯罪ものでもたいていは間抜けで憎めない泥棒だったりで、罪のないストーリーがほとんどです。

居残り佐平次は最初から無銭飲食を決めています。口八丁で最後まで善意の町人をだまし、バカよばわりまでして、計画的犯罪が見事に成功するという、かなり反社会的な噺です。この落語は一体何を言いたいのでしょうか?佐平次の見事な話術に人が引き込まれていくところなど部分的には面白いけれど、全体としては詐欺礼賛です。おこわとゴマ塩のオチを使いたかっただけなのか、はたまた詐欺師団体向けに作ったのか。聞くたびに作者(春風亭柳枝)の意図を考えてしまい、どうもスッキリしません。振り込め詐欺が流行っている昨今ですが、もしかしたらこの噺ができた当時も詐欺が横行していて、町人に注意を喚起するためだったのであれば納得もできますが。

さて、いつもは経営の話題と結びつけて締めくくる本紙ですが、今回は経営とは関係ない話でオチがなくて終わります。なぜって経営成績は「オチないほうがいい」ですから。といったところで話にはオチがつきました。ただ、騙しでなく、人を喜ばせて惹きつける佐平次の話術は商売に活かせますよ。

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